ひあたりの枯れて車をあやつる手 鴇田智哉「天の川銀河発電所(2017)左右社」
アンソロジー句集からの一句。季語は「枯る」。「冬が深まり木や草が枯れはて、野山が枯一色となった蕭条たる景。一本の木や草についてもいう」と歳時記に記されています。
この句には「見せない」というテクニックが用いられています。描かれているのは「車をあやつる手」のみ。ドライバーの顔は見えません。さらに運転するではなく「車をあやつる」。言葉通りに読めば、人間ではなく手が車を操縦している。そんな不気味さを感じます。一面冬枯れの死の世界に日が当たっている。何かも露わになっていて死を隠すものがない。車の中から手だけが見えている。掲句はこんな映像になるでしょうか。
私が思い出すのはスピルバーグの映画「激突」。車を運転していて、前をゆくトレーラーをふと追い越してしまった主人公。彼に抜かれた車が襲いかかります。崖から落とそうとしたり、踏切に押し出して列車に轢かせようとしたり。相手の顔も、追い詰められる理由もわからず、ただ逃げ惑う主人公。映画の最後は、事故を起こして壊れたトレーラーの運転席から手だけが見えている。不条理ではありますが、現代社会で誰もが遭遇するかもしれない出来事。もしも、トラックの運転手の顔が見えていたらどうでしょう。ここまで怖くはならないはず。ある筈の顔がない、ということがこの映画の大きな特徴です。同じように、手だけしか描いていない掲句。顔を見せないことによって強い印象を残します。
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」
最近の句集から選ぶ歳時記「キゴサーチ」(冬)