さくらんぼ抜歯の痕に舌置いて 今井聖「九月の明るい坂(2020.9.1)」より
この句を見てはじめて気づきました。抜歯の穴にさくらんぼが丁度はまりそう。何故かはわかりませんが、歯を抜くと痕を舌で触ってみたくなる。誰もがやっているに違いありませんが、あまり句には詠まれない場面を切り取った一句です。治りかけたかさぶたを剥がしたくなるように、私たちは不条理な衝動を身のうちに抱えているのです。
さくらんぼを口に含んで転がしながら舌は抜歯の痕に触れ、さくらんぼにも触れます。読者は微かな血の味と果実の甘さが入り混じる不思議な感覚を追体験します。
あるものがなくなったとき、私たちは容易く忘れてしまいます。。最近、駅前にできた更地。前に何が建っていたか思い出せない。私にはそんな経験があります。しかし、抜歯となると話は別。無くなったものが気になって仕方ありません。つまり人は見たものは忘れるが、痛みを伴うものは忘れない。掲句の意味するものの深さに気づかされます。
最近の句集から選ぶ歳時記「キゴサーチ」(夏)
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」