
季語がない作品を無季と呼びます。それに対するのが有季。俳句は有季に限るという俳人もいれば、無季も許容するという方もいて統一された見解はありません。ところで有季派の代表のように思われている高濱虚子にも無季の句があります。
祇王寺の留守の扉(とぼそ)や推せば開く 高濱虚子
祇王寺は、「平家物語」の祇王・祇女にまつわる尼寺。その庵主だった高岡智照尼は、新橋の花柳界から名妓として映画スターになった人です。美貌の故に、多くの文人墨客・政治家・公家たちと交遊しました。その後、恋愛に失敗して自殺未遂や離婚なども経験。一説によると不義理のあった元の恋人に自身の小指を切断して郵送したとも。もっともこれは著作『花喰鳥』に記された虚構かも知れません。
そんな事実を知ってこの句を読むと、一層艶っぽく感じます。この句、実は
祇王寺の草の扉(とぼそ)や推せば開く
だったとされています。これならば「草の」という季節感があったのですが、虚子はわざわざ「留守の」と推敲。なじみの女性を寺に訪ねてきたが、留守だった。でも扉はあいていたよ、こんな意味になるでしょうか。草の扉ではひなびた印象しか残りませんが、留守の扉とすると俄然色っぽくなります。つい二人の恋の行方まで想像してしまうではありませんか。虚子があえて無季を詠んだ意味もここにあるのでしょう。ただし虚子はこの作品を俳句ではなく「十七字の詩」と呼んでいます。
ところで掲句の「扉」、読めましたか?私は坊城俊樹さんのブログで知ったのですが、「とぼそ」と読みます。「とぼそ」とは辞書によると
1 開き口を回転させるため、戸口の上下の框 (かまち) に設けた穴
2 戸。扉。
原義は開戸の軸受の穴のこと。転じて戸のことも言うようです。草庵などの簡素な入り口が目に浮かびます。尼寺の庫裏の扉なら、やはり「とぼそ」でなくてはならなかったのでしょう。虚子の美意識が感じられる用語です。
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