- 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ
- 繭干すや農鳥岳にとはの雪
- 霧深き積石(ケルン)に触るるさびしさよ
- 灼けそゝぐ日の岩にゐて岳しづか
- 雪渓を来し水走り蕎麦咲ける
- 穂高岳真つ向ふにして岩魚釣
- 岳烏さはがしき夜のスキー小屋
- 牧牛に雪解のながれいくすじも
- 岩魚釣歯朶の葉揺れに沈み去る
- 白樺の皮焚く門や魂迎
- 白樺の門に立てたるスキーかな
- 古苑や徂く春の花真つ盛り
- とまりたる夜汽車の窓や桑にほふ
- 門ふさぐ蕨の荷あり浄瑠璃寺
- 柴漬や夕富士凪に見失ふ
- 諏訪の町湖もろともに凍てにけり
- 炉開くや湯の花採りの一家族
- 白樺の葉漏れの月に径を得ぬ
- 桑枯れて日毎に尖る妙義かな
- 月明や乗鞍岳に雪けむり
- 蚊火消ゆや今宵も岩魚焼く火見ゆ
- 青く赤く燃ゆる星あるキヤムプかな
- 山雲のかゞやき垂れし泉かな
- 蚊火焚くや樹海の空の暮れてより
- 望の夜の雲みだれたつ樹海かな
- 噴煙の下りくる道のみちをしへ
- 槍沢も雪渓となる雲往来
- 日輪のすゝけ顔あり霧襖
- 木がくれて梅雨の山家となりにけり
- 水無月の山雲垂れぬ蚊火の宿
- 焚火番ほとほとねむくなりにけり
- 霧下りて灯の暈つくるキヤムプかな
- 蕗の葉のひるがへりつゝ道涼し
- 甲斐駒に雪おく朝の尾花刈
- 老鶯に杣は木魂をつくりけり
- 水蘚に立つかげろふや尾瀬の春
- 雲垣や雷鳥鳴けるお花畑
- 紺青の空が淋しや萩の花
- 釣橋に夜は明けてをり小鳥狩
- 谿さびし穂高のうへの秋の雲
- 海苔舟の水尾のひかりも夕まぐれ
- 城ヶ島晩涼の灯をつらねけり
- かよひ路の桑のにほひや朝曇
- ふるさとや喜雨に濡れたる野のひかり
- 明けちかき雲ゐざりゐる夜振かな
- 木瓜咲けば遠嶺も春にかへりけり
- 沖荒れて海岸日傘今日淋し
- 江の島のみどりと海岸日傘と
- 沖暮れて海岸日傘見えざりき
- 落葉松の立のまばらに雪の嶺
- 落葉松の芽も白馬も闌けし春
- 落葉松に雪解の水のせゝらげる
- 落つる日の嶺をはしれる樹氷かな
- 初雪の穂高に落つる日のひかり
- 牧童ら落葉なだれに乗りあそぶ
- 古き馬柵落葉なだれに傾ける
- 新芽立つ白樺の雨ひかるなり
- 山桜青き夜空をちりゐたる
- 炉火守の遠き雪崩に目覚めをり
- 遠ざかる雪崩や炉辺に目をとづる
- 日輪のあはれなづまぬ吹雪かな
- 雪崩るゝとスキーをとゞむ霧の中
- 雪渓の日にけにあれぬ山桜
- 春闌けし牧をいだけど雪の嶺
- 樹も氷る池は去年より凍てにける
- おとろへし吹雪の天に岳は燃ゆ
- 窓の灯は樹氷を照らし橇をてらす
- 吹雪く夜の雷鳥小屋の灯に啼くか
- 石楠花の岩落つ水は淵をなす
- 山桜岨の道燈の灯るところ
- 鞦韆に子等はむつみ来山桜
- 裏富士の春いまだしも山桜
- 白馬の裾みの春田人を見ず
- 牧牛の真昼ちらばり山躑躅
- 仔の牛の躑躅がくれに垂乳追ふ
- 木がくれて濃霧の牛のあひ寄れる
- 若駒の濃霧を現るゝ膚あはれ
- 赤松の芽立ちの雨に駒は臥す
- 春あらし牧の木群れをわたりゆく
- 谷の日は蕗のまろ葉にせゝらぎに
- とはの雪キヤムプに近く夕映ゆる
- 初蝉や河原はあつき湯を湛ふ
- 沼の霧明けゆく樹々に流れ入る
- 白馬の雪なほゆゝし春まつり
- 白馬の裾田の春を渡御ゆけり
- 白き雲ゆくみぢか夜の嶺くらし
- 羽抜鶏山桑畑に来て追はる
- 長梅雨の瀬のさだめなき岩魚釣
- 囲む火に岩魚を獲たる夜はたのし
- 岩魚焼く火のさかんなり瀞の闇
- 短夜の扉は雲海にひらかれぬ
- 登山綱干す我を雷鳥おそれざる
- 樹々涼し穂高岩群照りをるに
- 岩燕霧の温泉壺を搏ちて去る
- 峠路や夏蠶の家は瀬を前に
- 谿ふかく秋日のあたる家ひとつ
- 秋晴や笹生のひかり木がくれに
- 秋晴やましろの樺はまつたけれ
- 山里をゆきつゝ菊の香に触れぬ
- 宿の子と鶫焼く炉をかこみつゝ
- 霧こめてなほ笹原に日のひかり
- 霧すぎて笹原わたる風の音
- 浪高し今日磯鶸を見ざりけり
- 港の灯降誕祭の窓に見ゆ
- きさらぎの雪とけがたし麦は生ふ
- 春の雪雑木林に入りて踏む
- 橇あそび雑木林の雪に来る
- 橇あそび家路の雪の凍りゆく
- 雪の富士雑木林の夜を見ゆ
- 温室のばら深雪のなかに花を了ふ
- 青潮のみちかゞやかに門の薔薇
- 雑魚掬ふ童もゆきて麦熟れぬ
- 桑の葉のひかりにむかひ氷呑む
- 初雪のひかりに馬柵はまぎれつゝ
- 初雪の馬柵の戸開くる声きこゆ
- 刈草を干す日は牛を嶺に追ふ
- 藁干すや来そめし雪の明るさに
- 雪晴の馬柵の戸来れば犬待てり
- 牧の犬むつみ来るまゝ雪嶺へ
- 雪を来し犬とパン食むさびしさよ
- ゆきなやむ雪の茨を犬はゆく
- 道を得しわれも牧犬も雪まみれ
- 枯萱に去りゆく犬を目守りつゝ
- 雪晴のヒュッテの朝餉皆はやく
- 雪晴の山毛欅の影美き薪とり
- この谿の春の樹氷や窓ちかみ
- 炉火守りて焼岳凍る夜を寝ねず
- 藁床の香にこがらしに目覚めゐる
- 雪けむり立てど北斗はかゝはらず
- 雪けむり立つ夜の星座鋭く正し
- 雪晴の谿のふかきに学舎見ゆ
- あしたより学舎の大炉ゆたかなる
- 谿雪崩うまれし径を来て学ぶ
- 学童のゆきゝす床の雪まみれ
- 鳴りわたる始業の鐘に炉火ゆたか
- 谿雪崩学びの窓のしづけさに
- 子等寄りて昼餉を炉火にあたゝむる
- 学童に雪あらたなる家路あり
- 子等散つて深雪の学舎たそがるゝ
- 笛吹の学舎のさくら見つゝすぐ
- 笛吹のながれをひきて田を植えぬ
- 岩群を夏日の下に恋ひ来たる
- 岩灼くるにほひに耐へて登山綱負ふ
- 炎天の雲のゆきたる岩照りぬ
- からみゆく登山綱にわれに岩灼くる
- 岩灼くるその岩かげの雪あはれ
- とはの雪灼けそゞぐ日にかげろはず
- 雪谿のひかりをへだつ霧かなし
- 岩濡らすはげしき霧をなほ攀づる
- 頂のしばしを霧に馴れ憩ふ
- 霧ふかき積石に触るゝさびしさよ
- 岩群を夕霧ふかくかへるなり
- 萱萌えし伊豆の峠の雪を踏む
- 谿ひろし初夏の雲ゆき影をひく
- ゆく雲の遠きは萱にかくれつゝ
- 南風の径はるけくも萱を縫ふ
- 南風やゆく人まれに萱さわぐ
- 夕立の来むかふ樹々のひかりなく
- 夕立来し樹々のにほひのたゞよへる
- 樹々ふかく白樺澄めり夕立晴
- 樹もれ日のゆたかに澄めり夕立晴
- 雲うつすプールに風の原展く
- 山女釣来てはプールに泳ぎ出づ
- 石叩プールかすめて屋根石に
- 山の子ら霧のプールに声をあぐ
- 泳ぎ子に夏山の雪夕澄めり
- 原とほく日は梅雨雲を濡れ移る
- 郭公のひそみ啼きゐて風暑し
- 真日あびて行きゆく原に歯朶の青
- 笹原の暮れゆくひかり白樺に
- 白樺の径出て原の夕ふかし
- 朝焼に群立ちむかふ岩昏し
- 朝焼のさめつゝとほし雪とりに
- 息づけば灼けし風さへ岩吹かず
- 雷鳥や雨に倦む日をまれに啼く
- 苔にほふひと夜のねむり短かかりし
- 鯉の子に佇てば裸子出てきたる
- 鯉の子に日焼けし旅の面よせぬ
- 鯉の子を見つゝすごしぬ日のさかり
- 空澄めり穂高は雪をとく待てり
- 岩群にひかりはなかり雪来たる
- 岩群もわれもあらたの雪をむかふ
- 花圃の犬つれて渚の南風に
- 犬つれて歩み疲れぬ青あらし
- 緑蔭をもとめて花圃の犬と来る
- つゆけさの坂をゆきつゝ犬を呼ぶ
- 垣くゞり露にまみれて来し犬よ
- しづかなる家並つゆけし犬とゆく
- 高浪のかさなりつゞき驟雨くる
- 潮けぶり礁あげて驟雨くる
- 潮けぶり驟雨わたりてかきけされ
- さわやかに浪よ礁よ驟雨去る
- 潮澄みて跣足にあつき浜かへる
- ラケットを持ち南風の坂をゆく
- 蝉時雨野川のひかり木がくれに
- 地下涼し発電機逸る音に馴れ
- 冬薔薇や海港の雪とけやすく
- 葭の風ゆふべつのりて鮠とばす
- ばらぬすと幼なけれどもこゑかくる
- ばらぬすと声かけられてほゝゑみぬ
- 盗りしばらしたと手にせり哀れなる
- とほき日のわれも誘はればら盗りし
- わが歩みばらを得し子にはなれつゝ
- ばらぬすと木もれ日つよき方に去る
- ばらぬすと去りぬゆふ空うつくしき
- 菊をきるこゝろとなりて目ざめゐる
- 菊に佇ちおそき目ざめの身を悔ひぬ
- 菊さして母は朝餉をおくらせぬ
- よき朝餉菊さしをへし母ととる
- 山焼にゆきたる父を待つ子あり
- 父もゐて焼くなる山火指す子あり
- さかんなる山火に弟を呼ぶ子あり
- 窓とほく更けし山火にちさくねる
- 窓の青きはまり岩は並み凍てぬ
- 堅氷の岩に身をかけ頬あつき
- 堅氷をくだきゆく音に身は澄めり
- 吹く風の雪まぢへつゝ岩に鳴り
- 吹雪来し岩に眼つむりうれひなし
- 凍てし頬を岩に触れしめ息づきぬ
- 吹雪来て眼路なる岩のかきけさる
- 凍る身のおとろへ支ふ眼をみはる
- 吹雪けども岩攀づのみにたかぶれる
- 穂高なる吹雪に死ねよとぞ攀ぢぬ
- 蛇苺高原の日に傷みたる
- 蛇苺ふくみ馴れたる径たのし
- 緑蔭を詩なくあゆめり悔いもなく
- 緑蔭の葉漏れ日を掌にすくひみる
- 緑蔭に昆虫のあゆみ瞶むるを
- 緑蔭にすぎつゝ詩なく肌の冷ゆ
- 肌冷えの緑蔭を駆け野にし出づ
- 雲海になほ明けやすき霧かゝる
- われ濡らし霧雲海に消え去りぬ
- 短夜の国原とざす霧に濡れ
- 雲海に人のわれらのときめぐり
- 岩群の穂高覚めゐるみぢか夜に
- 岩群の辺の雲海くらかりき
- 岩群はとく明けぬるに空焼けず
- 夏山の地図古り母も老ひたまふ
- 母のまへ夏山恋ふるつぶやきを
- 夏山は馴れし我なりゆかしめよ
- 夕餉すみ夏山のさま母は問ひぬ
- 夏山の安きを言ひつ夜の更けぬ
- 夏山に母のうれひは断ちがたく
- もの言はずわれ夏山の書を瞶む
- 山恋ひて術なく暑き夜を寝ねず
- 夏山のかの月光をおもひ更けぬ
- 夏山に母にぞかよふわがこころ
- 落ちゆく日あつく牧犬よこたはり
- 真夜を立つ牧夫に霧の牧ひそか
- 霧の夜のひとつ灯さげて牧舎出づ
- 乳はこぶ馬に更けたる霧ゆけり
- ウヰンドに朝霧降れりゆきゝなく
- 緑蔭の戸毎に朝のミルクあり
- 落葉松の径晩涼の町に入る
- 浅間の火避暑の人らの夜あるきに
- 避暑の夜々蛾は更けし音つたへくる
- 夏潮の波によろめき身をひたす
- 波のりのさままねびては膚やきし
- 夏潮に手にせる梨に日はそゝぐ
- 街路樹に夜風つのりつ蛾のとべり
- 月光に伸べし手のペン夜は更けぬ
- 谿とほく月夜の小村濡れて見ゆ
- 港の夜更けて羽蟻を灯にふらす
- 海港の坂の秋日に彳ちてあつし
- 穂草持ちほそりし秋の野川とぶ
- 栗ひろふ径は夕映え風立ちぬ
- 野の家の風見ひかれり初あらし
- 初あらし野川はひかりうしなへる
- 散弾を掌にしたる日の秋ふかむ
- 散弾を掌に白菊の豪華見む
- 菊見つゝ生きねばならぬ詩を慾りぬ
- 菊澄みてしづけしと思ふ日は遠し
- 汗ばみし掌の散弾を菊にうつ
- 白菊に散弾ひかり土くれと
- つかれきし目に白菊の澄みまさる
- 白菊の豪華にゆふべせまりゐる
- 月光を夜の岩群と扉に浴びぬ
- 月光に石落つる音吸はれゆく
- 月光の岩攀づわれをうつゝみぬ
石橋辰之助 プロフィール
石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)5月2日 - 1948年(昭和23年)8月21日)