アーネスト・ヘミングウェイは、ハードボイルド派と呼ばれます。ハードボイルドといえば探偵小説が有名ですが、文学史上は、暴力や反道徳的な内容であっても批判を加えず、客観的で簡潔な文体で描くこと。ヘミングウェイがその代表とされます。ハードボイルドとはもともと固ゆでの卵のこと。硬いのですが、卵ですから実はやわらかい。名作「武器よさらば」はこんな内容です。
第一次大戦中イタリア軍に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリー。しかしそこは理想とはかけ離れた世界でした。彼は戦場で看護婦キャサリン・バークレイと出会います。初めは遊びのつもりの恋でしたが、しだいに二人は深く愛し合うようになります。やがてキャサリンの妊娠が分かり、二人は中立国のスイスへと夜のレマン湖を渡り逃亡します。ところが難産の末、子どもと共にキャサリンは死んでしまうのです。「武器よさらば」の最後はこう結ばれています。
彫像にさよならをいうようなものだった。しばらくして私は部屋を出て病院を後にし、そして雨の中をホテルへ歩いて帰った。
これだけ。大著の末尾がたったこれだけ。彫像は もう動かない最愛の人の端正な顔立ちを示します。しばらくして、は心理的な時間の描写。様々な思いが交錯し、気持ちの整理がつかない時間が過ぎてふと我にかえった。その長い時間が しばらくして、と簡潔に示されます。そして、でつなぐのはヘミングウェイ特有のスタイル。原文では「and」。そっけないほど無造作に、重要な出来事が語られます。雨の中をホテルへ歩いて帰った。悲しかったとも辛かったとも言わずに主人公の思いを伝えます。雨は、彼の顔を打ち流れ落ちているでしょう。涙を流していたとしても気づかれません。そう、もしかしたら彼は人知れず泣いていたのかも知れません。この簡潔さ。形容詞に頼らない心理描写の巧さ。どこか俳句との共通点を感じませんか。
ところで、ヘミングウェイはどのようにして、この文体にたどり着いたのでしょうか。ハイスクールを卒業すると、彼は伯父の知人の紹介で「キャンザス・シティ・スター」という新聞社に勤めました。僅か七ヶ月間でしたが、ここで文章について多くのことを学びました。入社早々渡された「文体心得」にはこう記されていたそうです。「短い文章を用いよ。最初のパラグラフは短く。力強い英語を用いよ。肯定形を用い、否定形を用いるな」「形容詞を用いるな。特に すばらしい、華麗な、雄大な、といった極端な形容詞を避けよ」
こうした文体上の心得に加えて、記者として冷静に客観的に事物を観察する力を養いました。(グーテンベルグ21 高村勝治訳より)
この心得、英語のくだりを除けば俳句の入門書にそのまま記してもよい内容となっています。そう思いませんか。