目次
金子兜太とは?
ここでは、金子兜太についてご紹介します。
金子兜太の誕生
金子兜太の誕生は、第1次世界対戦が始まった1919年9月23日です。
母親の実家の埼玉県比企郡小川町で誕生しました。
父親の金子元春は、地域医療に開業医として従事しながら、俳号が伊昔紅という俳人でもありました。
また、秩父音頭の歌詞を改定するために力を尽くした人としても有名です。
母親の金子はるは、父親の金子元春が集めた俳人が繰り返して乱痴気騒ぎをする様子を見ていたため、俳句の俳は「人に非る」であるということで、俳人に金子兜太がなることを喜ばなかったといわれています。
そのため、金子兜太が俳句に没頭するため与太といっていました。
金子兜太の性格
金子兜太は、質実剛健を感じさせ、本質をまっすぐに掴み取る実直な性格で、確かな信念を持ち、核心が人として揺らぐときがありません。
ここでは、このように感じる金子兜太の性格のエピソードについてご紹介します。
自分の俳句を師が採ってくれないために腹を立てた金子兜太は、ある時に師を批判した文章を書いて、師につきつけました。
師を批判するなどは、芯が余程の強い人でないとできないことです。
なお、師は金子兜太の批判した文章を俳誌に見開きページで載せたと、後日談としていわれています。
金子兜太の性格と同時に子弟関係や師の器の大きさを物語るエピソードです。
金子兜太の故郷
埼玉県秩父郡皆野町で、金子兜太は育ちました。
埼玉県西北部の秩父盆地に皆野町はあり、荒川が町の中央を流れています。
皆野之郷として戦国期には記録されています。
幕府領に江戸時代にはなっていましたが、明治時代になってから忍藩領になり、入間県を経て現在の埼玉県になりました。
金子兜太は、豊かな自然の皆野町を愛し、自分にとっての産土と表現しています。
それほど秩父の地は金子兜太にとって必要なアイデンティティでした。
金子兜太が亡くなった原因
金子兜太が亡くなったのは、ARDS(急性呼吸窮迫症候群)が原因であるといわれています。
難しい医学用語であるためどのようなものかわからないでしょうが、簡単にいえば一つの呼吸不全で、敗血症や肺炎によって引き起こされる疾患です。
金子兜太は、誤嚥性肺炎のために2018年2月に入院しましたが、急性呼吸窮迫症候群のために享年98歳で亡くなりました。
代表的な金子兜太の俳句とは?
ここでは、代表的な金子兜太の俳句についてご紹介します。
「階下の人も 寝る向き同じ 蛙の夜」
私は山口県の山奥で少年の時期は生活していたため、ごく蛙は身近な生物でしたが、東京で生活するようになってから、ほとんど蛙の声など聞いたことがありません。
金子兜太は、お客さんとして布団を2階に敷いてもらいましたが、しきりに蛙の声がするためなかなか寝つかれません。
このような中で、ふと気がついたおかしみです。
金子兜太の力業も魅力がありますが、このような初めの時期の神経の繊細な使いようも面白いものです。(清水哲男)
「霧の村 石を投らば 父母散らん」
この俳句は、金子兜太の故郷の秩父に対する思いを込めたものです。
石を投げると父親も母親も、さらに父祖の霊も散るだろうということです。
故郷に対する愛憎が読みとれます。(酒井弘司)
「鰯雲 故郷の竈火 いま燃ゆらん」
竈火はかまどびと読みます。
望郷の歌ですが、まだ金子兜太は若いため、それほど深刻な内容ではありません。
私がこの俳句に特別に興味があるのは、金子兜太の若き日の発想のありどころです。
全く企みもなく、大空の明るい様子から暗い故郷の土間の竈火の色に思いが自然に動くという、詩人としての天性の資質を感じます。
金子兜太の俳句の中では、論じられたことがあまりない一つの俳句でしょう。
現在は故郷の竈火も無くなっており、私などにとっては望郷の歌であるとともに亡郷の歌であるとも読めるようになっています。(清水哲男)
「冬旱 眼鏡を置けば 陽が集う」
旱はひでりと読んで、カラカラ天気という意味です。
書き物か読書かにちょっと疲れて、眼鏡を取って机の上に置けば、窓越しの冬の低い日差しが眼鏡のレンズに集まってきました。
暖かいのは嬉しいが、一雨そろそろ欲しいところです、というような金子兜太の心情でしょう。
目が生まれたときからいい人には、わかりにくい感覚でしょう。
私も非常に目はいい方であったため、目が悪くなってから、ようやくこの俳句の味がわかったような感じがしました。(清水哲男)
金子兜太の著書とは?
ここでは、金子兜太の著書についてご紹介します。
「金子兜太の俳句入門」
俳句を作るテクニックや心構えなど、季語にとらわれない、主観を吐露する、生活実感を表すなど、82項目に渡って紹介されています。
俳壇の代表的な俳人の金子兜太が、ストレートに独自の俳句観を綴る入門書です。
「悩むことはない」
94歳の金子兜太が語る人生の心得です。
楽な気持ちで昨日より生きるための知恵が紹介されています。
まるで口調が散文詩集のように語られる人生訓が堪能できます。
「他界」
「他界」は、故郷、忘れ得ぬ記憶です。
懐かしい人達があの世には待っています。
俳人の金子兜太の95歳までの生き方を辿りながら、死ぬことと生きることについて書き下ろしたものです。
95歳まで生きた金子兜太の言葉の重みが、死に方と生き方に思い悩んでいる読者の多くの心に響くでしょう。
「金子兜太の俳句塾」
金子兜太が、20人の俳句好き著名人が詠んだ俳句を本気で添削したものです。
俳句の自分らしさを出すエッセンスが満載されています。
「金子兜太戦後俳句日記」
金子兜太は、昭和32年(1957年)1月1日から亡くなる前の年の平成29年(2017年)7月3日まで、日記をほとんど毎日書いていました。
年齢としては37歳の元日から97歳の夏までで、期間としては61年7ヶ月間になります。
金子兜太が亡くなって1年経ってから、日記が公開されました。
日記は、俳句関係をメインに全3巻です。
第1巻では、前衛俳句の旗手として金子兜太が台頭してきましたが、現代俳句協会賞を第1句集の「少年」で受賞した後、「海程」の創刊に携わって俳句造型論を展開し、自分の俳句を作る方法を理論化した壮年期の37歳からの20年間が収録されています。
日本銀行の行員として、定年まで神戸、長崎の支店、東京本店と勤めた時代です。
ここには、新しい伝統にとらわれない句作に対する苦悩や志、繊細な感性と知的野性が入り混じる瞬間が包み隠さないで描かれています。
代表的な俳句が浮かんだ背景、発表されなかった「トラック島日記(環礁戦記)」の構想についても書かれており、「まぎれもなく戦後俳句の超一級の資料である」と全巻を解説する長谷川櫂氏も太鼓判を押しています。