しぐる「時雨る(冬)天文」【最近の句集から選ぶ歳時記「キゴサーチ」/蜂谷一人】




しぐるるや海苔弁うすく醤油味   上田信治「リボン(2017)邑書林」

季語は「時雨る」。時雨という名詞の動詞形です。時雨は冬の雨。冬の初め、晴れていても急に降り出してすぐ止み、止んだかと思うとまた降り出す。そんな雨のことです。もともとは京都の山沿いで使われた言葉で「北山時雨」など、地名をつけて呼ばれることもあります。

掲句は京都で詠んだもの、ではないと思いますが時雨を目にしながら海苔弁を食べているところ。海苔のべちゃーっと湿った感じが、季語を引きたてています(苦笑)。うすい醤油味という細かい描写が一味足りない感じを漂わせて絶妙。さて実はこの句、前書きに有名な短歌を配した野心的な作品なのです。その前書きとは

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤

一度読んだら忘れられない一首です。この歌の特徴は、作者が見たものを時系列に忠実に描いている点。まず、雨の県道という場所が示されます。国道ではない県道ですから、少々鄙びた感じ。とはいえ林道のような山中でなく町中。歩いてゆくと何かが落ちている。「なんでしょう」というフレーズが、作者の頭に浮かんだ疑問符を描き出します。なんとよく見たら、ぶちまけられた海苔弁ではないか。雨で海苔も飯もぐずぐずに濡れています。普段から海苔弁を食べ慣れている人でなければ、何かわからなかったでしょう。ここで作者の生活まで見えてきます。幕の内や鮭弁など色々ある中で、ここは安価な海苔弁でなければなりません。誰が何の目的で海苔弁を、雨の中ぶちまけているのかわからない不気味さ。

さて掲句と短歌を読み比べると、共通点と違いがはっきりと見えてきます。共通点は主観的な描写。うすく醤油味だとわかるのは、自分で味わったから。なんでしょう、と不思議に思ったのは作者の感想。両方とも客観的事実ではなく、作者の主観を通して世界を見ています。違いの方は、読後感。俳句は端正なのに短歌は不条理そのもの。むき出しの感情をむき出しのまま手渡すのが短歌なのに対し、俳句は定型に収めることである種の理解を共有できる。そんなことを思いました。

実はこの句集、掲句の前後に9つの短歌+俳句が掲載されています。折角ですので、いくつかご紹介しておきましょう。

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり  斎藤茂吉

トマト畑二三歩離れものいおもふ

大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも  北原白秋

秋の空時計が見えて大きな手

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ  山中智恵子

タクシーを降りれば雪の田無かな

名歌を取り上げて、自作の俳句と対照させる。大変興味深い試みです。この作者は、インターネットに早くから注目し「週刊俳句」というwebマガジンを創刊するなど、いつも新しいアイデアを俳壇にもたらしてくれます。

 

プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」

公式サイト:http://miruhaiku.com/top.html

 

最近の句集から選ぶ歳時記「キゴサーチ」(冬)

 






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