岸本尚毅さんは無意味な句の例として次の句をあげています。
鴨渡る明らかにまた明らかに 高野素十
「鴨渡る」は秋の季語。秋に北から渡ってくる様が季語になっています。素十の句は、季語を除くと「明らかに」の繰り返ししか残りません。明らかにとは、なんとまあ情報量の少ない言葉。どんな風に明らかなのか、そこを述べて欲しいのですが素十先生はどこ吹く風。お前が想像すればいいんだよ、と突き放されてしまいます。じゃあ、この句は結局季語だけなんじゃないじゃいか、と思ったあなた。誠にそうなんです。ものすごくうまい俳人たちの中には、季語に全幅の信頼を置いていて「季語さえあればいい」という姿勢を見せる方がいらっしゃいます。素十がそうですし、今井杏太郎も「最後に残るのは季語だけ」と弟子に伝えていたとか。
さて岸本尚毅さんは、掲句を虚心に読んでほしいと述べています。「鴨渡る」は季語そのもの。「明らかにまた明らかに」に反復の「また」があるので、鴨が一団また一団と飛んでゆく様子は想像されます。「明らかに」ですから、空を背景に一羽ずつくっきりと見えている。目の前をばさばさ飛んでゆくのではない。遠くをゆるやかに飛んでゆく。鴨を遠望する作者の眼が感じられます。(「十七音の可能性」より)
無意味な句が、必ずしも無意味ではない。むしろ読者の想像の幅を広げ緻密な写生句以上に雄大な景色を見せてくれることがある。そんなことに気づかせてくれる一句です。
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」
公式サイト:http://miruhaiku.com/top.html
ワンランク上の俳句百科 新ハイクロペディア