木の囲む家の来し方春の月 ふけとしこ「眠たい羊(2019)」
木の囲む木の家。例えば新婚の記念に、苗木を家の周囲に植えたとします。木はまだ小さく、窓からは光が差し込みます。やがて子どもが生まれ、木は成長します。窓からの光の角度が少し変わってきました。子どもは木によじ登って遊びます。ときどき落ちて大泣きしたりします。木の実を拾って食べたり、どんぐりで独楽を作ったりします。大枝に縄をわたしてブランコを下げます。ハンモックを吊るした夏もありました。子どもが成人するころ、木は屋根よりも高くなり、日差しが遮られます。あんなに明るい家だったのに、子どもが独立するころには少々暗く見えます。にぎやかな声が去ってゆくとなおさら寂しく感じます。ある年台風が来て大枝が折れます。植木屋さんがやってきて、折れた大枝が家をつぶすといけないから、切りましょうと言います。しぶしぶ承諾しますが、切ったあと日差しが届くようになってちょっと嬉しくなります。切った枝で椅子を作ります。晴れた日にはその木の椅子でお茶を飲みます。夫婦の静かな時間です。
木の囲む家の来し方にはこんな物語があったのかもしれません。木の時間と人間の時間が重なって物語を紡いでゆきます。梢の上に昇った春の月が老夫婦を照らします。ちょっと艶っぽいその光は、夫婦に新婚時代を思い出させてくれるのです。
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」