
- あたたかくたんぽぽの花茎の上
 - いちまいの朴の落葉のありしあと
 - おぼろめく月よ兵らに妻子あり
 - さよならと梅雨の車窓に指で書く
 - しづかなるいちにちなりし障子かな
 - ふりむけば障子の桟に夜の深さ
 - 円光を着て鴛鴦の目をつむり
 - 春の夜のつめたき掌なりかさねおく
 - 生徒らと五月の朝の窓あけて
 - 苗代の月夜ははんの木にけむる
 - 連翹の雨にいちまい戸をあけて
 - 凍解のはじまる土のにぎやかに
 - たゞよへる梅のにほひの土の上
 - 芽楓を透く日の苔に茶室の門
 - すかんぽのひる学校にゆかぬ子は
 - しきりなる落花の中に幹はあり
 - 一聯の泡酸漿の林より
 - 車窓暮れ菜殻焼く火の来ては去る
 - 高波をえいやえいやと鰹舟
 - はまゆふに雨しろじろとかつ太く
 - そのなかの暗き舟こそ神興ませ
 - うちしきてあしたの沙羅のよごれなし
 - 山国の日のつめたさのずいき干す
 - かをりやんに大陸の雨そそぐなり
 - 冬構落人村と世にはいふ
 - 黙々と来て除雪夫らいりかはる
 - 谿の夜の底冷えに住む灯の窓なり
 - 凍て土にこの好日のけふとなり
 - 山の子に獅子の遠笛やるせなや
 - 夏灼くる砲車とともにわれこそ征け
 - 頑躯汗すこやかあだをうたでやまじ
 - 雨さむし日本の海とわかるる日
 - 渤海の秋の落日けふも見き
 - ゆたかなる棉の原野にいまいくさ
 - 原をゆきわれたる雁をふりあふぐ
 - 星空のさむき夜明よ地に寝て
 - 鵲なくや霜天いまだくらきより
 - かきくもり雷鳴雹をたたきつけぬ
 - 探照燈の光芒下むきに地の枯草
 - 月たかく小さく叉銃して寝まる
 - 夜の雷雨砲車に光りては消ゆる
 - をのこわれいくさのにはの明治節
 - 友をはふりなみだせし目に雁たかく
 - 雁たかく空のひかりの中をゆく
 - 空しろくくもりていくさ冬は来ぬ
 - つち風のあらし地平より起る
 - つち風は地を這ひ足をもつらする
 - つち風のあらしもくもくと兵らゆく
 - かりがねのこゑとあふぎぬ雨空を
 - かりひくく雨あしとざす江上を
 - 雨さむく湖沼地帯のあしたゆく
 - 星さゆる遠き夜空を染む兵火
 - 枯野ただ大き起伏をして果てず
 - 城市遠く枯野の波のかなたかな
 - 城壁にあれば冬日が野に落つる
 - 家まれに枯野のうねり道のうねり
 - 焼けあとの壁と冬木とのみの村
 - わが馬をうづむと兵ら枯野掘る
 - 木枯が遠くの森をわたる音
 - 稲の山にひそめるを刀でひき出だす
 - 寒夜くらし喊声は壕をぬきたるか
 - 凍る夜は馬より下りてあるくなり
 - あるきつつ靴の底ひに足は凍つ
 - 犬が鳴き寒夜まくらき部落ゆく
 - 寒夜くらしたたかひすみていのちありぬ
 - ねむれねばま夜の焚火をとりかこむ
 - たま来ると夜半の焚火を靴で消す
 - 凍る夜のらふそくを土間に兵ねまる
 - 寒夜銃声ちかしと目覚め服を著る
 - 影ふかくかたきら捨てし壕凍てぬ
 - 霜おきぬかさなり伏せる壕の屍に
 - 酷寒の野をゆく軍旗縦隊つづき
 - かつがれて濃霧のなかへ消えてゆく
 - 胸射ぬかれし外套を衣を剪りて脱がす
 - 凍て土にほろほろと日のあたりそむ
 - 枯草に友のながせし血しほこれ
 - かかれゆく担架外套の肩章は大尉
 - あしたより霧雨さむくくらく降る
 - 寒夜くらし暁けのいくさの時を待つ
 - 地図をよむ外套をもて灯をかばひ
 - 雪くろくよごれ砲兵陣地なり
 - 観測は屋根の傾斜の雪に臥し
 - 砲据うとかつかつ凍てし地を掘る
 - 凍土揺れ射ちし砲身あとへすざる
 - 凍土揺れ砲口敵を獲つつ急
 - 凍て土に射ちし薬筒抛られ抛られ
 - 北風すさびたまととび瓦ふるひ落つ
 - 壁射たれ凍てたる土をこぼすなり
 - 寒風のつよければ振る旗おもし
 - 昼くらく北風つよき日なりけり
 - 南京を屠りぬ年もあらたまる
 - 福寿草掘るとて兵ら野をさがす
 - 南京城内にして鳥の巣のかかる樹を
 - しづかなる空がまいにち枯木の上
 - 防寒靴下妻あみしかとおもひてはく
 - かの旗を靴もて春泥にふみにじらんか
 - たんぽぽやいま江南にいくさやむ
 - やけあとに民のいとなみ芽麦伸ぶ
 - 目をつむりはろばろ来ぬる枯野あり
 - かの丘にこれの枯野に友ら死にき
 - 彼をうめしただの枯野を忘るまじ
 - 朝濡るる落葉の径はひとり行かな
 - 落葉ふかしけりけりゆきて心たのし
 - さくらはや かたき小さき 芽をもちぬ
 - 流氷のかがやきのなかを航くしづか
 - 氷の海むらさきはしり日ののぼる
 - 氷の原春はちかしと日を浴ぶる
 - 対陣の雪が野に降る壕に降る
 - つちふるや一天くらく林鳴り
 - つちふるや日輪たかく黄に変じ
 - 雪に伏し掌あはすかたきににくしと見る
 - 雪の上にけもののごとく屠りたり
 - 水得んと涸れたる沼の底を掘る
 - 酷寒とうゑとのかたきあはれまず
 - 土色の冬ひしひしと野にきびし
 - みいくさは酷寒の野をおほひ征く
 - 凍る野に部落は土壁めぐらせる
 - 酷寒が戦禍のすぎし焼けあとに
 - 酷寒のたうべる草もなき土民
 - いくさゆゑうゑたるものら枯野ゆく
 - 村を捨てこの酷寒をどこへゆきし
 - 酷寒は家なきものらにも来たる
 - おづおづと氷雨にぬれてかたまれる
 - あはれ民凍てしいひさへ掌に受くる
 - 民うゑぬ酷寒は野をおほひけり
 - 酷寒はかたきを土匪となし果てぬ
 - 宣撫班酷寒の野をとらつく駆り
 - 北風がときに宣撫の声をさらふ
 - 酷寒とうゑとの貌があつまり聞く
 - 食を乞ふかじかめる掌の指ひらき
 - 食を乞ふ少年あばら骨さむく
 - 宣撫ぽすたあに冬あたたかき顔をよせ
 - 凍る野に城門をあけ民ら迎ふ
 - 雪に立ち治安維持会員と写真撮る
 - 山ねむるかたきこもると指すは遠く
 - ねむりたる谷にかたきは匪とこもる
 - 地凍る漢民族の大き国土
 - 赭土の断崖のもと凍る黄河
 - 凍る断崖黄河文明起りし地
 - 進軍はつらなる嶺々の雪を越え
 - 馬ゆかず雪はおもてをたたくなり
 - 雪の上に焚くべきものもなく暮れぬ
 - 足ふみをして暖をとるばかりなり
 - 雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り
 - 春聯やいくさは遠く山に去り
 - いくさややひまに氷を割りて釣る
 - 日が永くなりしとおもふ丘の影
 - 春なれや戎衣のよごれ目にはたつ
 - 麦の芽や黄河は遠く目に消ゆる
 - 野はたのし芽麦のみどりあはけれど
 - おぼろめくしづかなしづかな枝の空
 - 麦の芽とおぼろの暈をもつ月と
 - 思ひあまたいくさする身のおぼろ夜は
 - 匪ら棲むと李花咲く村をとりかこむ
 - 李花咲いて平和な村のすがたなれど
 - おぼろ夜のいくさのあとのしかばねよ
 - 麦の芽をしとねと君がかばねおく
 - おぼろ夜のはふり火に立つわれ隊長
 - おぼろ夜の頬をひきつらせ泣かじ男
 - むし暑く馬のにほひの貨車でゆく
 - かをりやんの上ゆく貨車の屋根にも兵
 - 大兵を送り来りし貨車灼けてならぶ
 - かげろふにうかび地平を縦隊が
 - うれしまま戦禍の麦のくたるなり
 - 麦の穂にたふれしづみしが起きて駈く
 - 向日葵畑ぶすとたま来て土けむり
 - 地図の上に汗を落して命令聞く
 - おほ君のみ楯と月によこたはる
 - けふもまた穂麦のなかに砲を据う
 - 空は朝焼け砲兵陣地射角そろひ
 - 輜重らの汗砲弾の箱を割る
 - もりもりと裸身砲弾をいだき運ぶ
 - 砲車はをどり砲手は汗を地におとし
 - 炎熱の山のとりでをよぢて攻む
 - 炎熱のいただきたまが四方より来
 - すべる砲車を裸身ささぬる汗を見よ
 - 石ころとあか土と灼け弾痕焦げ
 - 汗に饐えし千人針を彼捨てず
 - 彼を負ひ彼の汗の手前に垂れ
 - 汗は目に傷兵の銃と二つ負ひ
 - 血を止めんと軍医は汗を地におとす
 - 横たはり酷暑の血しほかわく胸
 - かをりやんの葉もて担架の顔を覆ふ
 - 月落ちぬ傷兵いのち終りしとき
 - 風あつくいくさのにはの夜を吹く
 - 大陸の雨かをりやんの葉を流れ
 - 戦場は沼のごとくに雨季に入る
 - 雨季泥濘戦禍に追はれゆくものに
 - 雨季泥濘砲車の車輪肩で繰る
 - 雨季泥濘埋もる敵屍を車輪にかけ
 - おくれつつかをりやんの中に下痢する兵
 - 脚気患者雨季のいくさを敢てゆく
 - たばこ欲りあまきもの欲り雨季ながし
 - 雨さむし軍旗は覆とらず立つ
 - さむく痛く腹をぬらして雨やまず
 - 雨季のあと家畜をたふす酷熱来
 - 酷熱のおのが砂塵のなかをゆく
 - ぎじぎじと熱砂は口をねばらする
 - かをりやんの影濃ゆしその土ひび割れ
 - 水なければ行きつつかをりやんの葉を噛みぬ
 - 胸に掌に歩兵はあごの汗おとす
 - 汗の目はかがやき黄塵の頬はとがり
 - 目にはひる汗はこぶしでぬぐふのみ
 - われ暑ければかたきも暑し暑にはまけじ
 - かをりやんの中を黄河の水奔り
 - 氾濫の黄河の民の粟しづむ
 - 空は旱氾濫の黄河野をひかず
 - かをりやんがたかくて歩哨さまたぐる
 - 城外の四囲のかをりやんを刈らしむる
 - 夜も暑くねられずと壁に穴あくる
 - 土の家なればむしあつくさそり棲む
 - 暑にも耐へよ君は不死身と師より給ふ
 - 夏に弱き妻なりき妻への手紙に書く
 - 酷熱にまけぬわれなりき無事と書く
 - 暑しと書き たつきはくるしからずやと書く
 - 疫病は雨季の汚物とともに来ぬ
 - 日々死にて土民コレラを知らず怖づ
 - コレラ怖ぢ土民コレラの汚物と住む
 - 野に捨てしコレラにからす群れ駆くる
 - 城門の出で入り厳にコレラ入れじと
 - 月の巡邏ま夜の魍魎地にあふれ
 - たたくわれに月の大扉はひたと閉づ
 - てつかぶと月にひかると歩哨に言ふ
 - 匪襲あり月が地平に落ちしとき
 - かをりやんの高ければ村を匪をかくす
 - 討伐はかをりやんのなかをわけてゆく
 - かをりやんの中よりわれをねらひしたま
 - かをりやんの中よりひかれ来し漢
 - てむかひしゆゑ炎天に撲ちたふされ
 - 汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず
 - 月あかるければ歩哨にさとられな
 - 月は空より修羅のいくさをひるのごと
 - 秋の日は病衣にあはしとぞおもふ
 - ゆふやけのさめつつおもひはろかなる
 - 月に佇つ白き病衣の肩ほそく
 - 秋白く足切断とわらへりき
 - 明日は発つこころ落葉を手に拾ふ
 - 病院船酷熱看護婦らめまひ
 - 夜は暑く看護婦をよぶ声あちこち
 - 円光を著て鴛鴦の目をつむり
 - 日の中のひかりをひいて鴛鴦すすむ
 - 鴛鴦あそぶ水玉水の上をまろび
 - 鴛鴦をつつみてひかりよごれなし
 - 寒に入る夜や星空きらびやか
 - まよなかの星寒天をあますなし
 - 黝きまで寒紅梅の紅驕る
 - 吃々と牡丹の枯枝日あたれる
 - もの音に冬木の幹のかかはらず
 - 凍りたる土の日なたのほかになし
 - はなしごゑ冬木の幹につきあたる
 - 凍土のおのが日なたの日もすがら
 - 現し身をつつみて寒さ美しき
 - 息しろくおのがこころとのみありぬ
 - 寒といふことばのごとくしづかなり
 - 人来れば障子を開けて出づるのみ
 - 大寒の土日あたりてただありぬ
 - ゆるむなき二月の冱てを唇に噛む
 - 大寒の日へうつし身をかくすなし
 - かたくなに根もと日ざさぬ大冬木
 - しはぶけば四方より幹のかこみ立つ
 - 太幹の裏の寒さのしづかなり
 - 土凍てて日輪のもとあるばかり
 - 水仙の花の日なたも冱ての中
 - 日あたりて冱てのゆるまぬ芽麦かな
 - 麦ふみに風の日輪吹きまがる
 - 寒林のなかにある日のよごれはて
 - 枯れはてしものにある日のやすらかに
 - 空冱てて日輪光を嵌めにけり
 - 寒林の中の人ごゑつきとほる
 - 大寒の日へ麦の芽のたちあがる
 - 日輪と雲と木蓮の芽とうごかず
 - 牡丹の寒芽のふとさねぢまがる
 - 立春の大地をもたげもぐらもち
 - 土の上に春まだとほくあたれる日
 - 春まだきくぬぎ林の幹そろふ
 - 麦の芽に日輪わたりかはりなし
 - 雪嶺に対きて雪解の簷しづく
 - 日輪は空に麦の芽土の上
 - 空の日へ木蓮の芽のこぞるなり
 - 枯枝の中にある日のにぎやかに
 - 笹鳴きに枝のひかりのあつまりぬ
 - 好日の土麦の芽の影とあり
 - 梅いまだ枝のひかりをさしかはす
 - 籾がらを敷きそらまめの芽の日和
 - 木蓮の芽のむさぼれる二月の日
 - 春とほくくぬぎの中の雨の音
 - 梅固し日輪宙に白く錆び
 - 春寒の土かたくなに塵をとめず
 - 柿の木の芽ぶくともなく日あたれる
 - 牡丹んの芽の日あたりてただありぬ
 - 木蓮の芽をふちどりて日のひかり
 - 春めくと枯木の枝の日の微塵
 - 牡丹の芽のおのがじし日あたれる
 - 竹幹のいろ早春の土に立つ
 - 早春のくもりいちにち竹の中
 - 春めくと障子をしめて机にもどる
 - 春を待つこころに雨の土ひかる
 - 春となる藁屋根しづく垂れて降る
 - 春くるとゆふべひとばん降りし土
 - 土の上のひかりをまとひ耕せる
 - 木蓮の芽に空を漉す日のひかり
 - たら芽ぶく枯れたるものの日の中に
 - たらの芽に山の日のなほよそよそし
 - 朴の芽にまぶしとあふぐ日にはあらず
 - うぐひすのこゑをつつみてくもるなり
 - 牡丹の芽の晴曇のふとりつつ
 - 春となる雨土くれに上に降る
 - ほぐれつつ牡丹の芽の雨低し
 - あたたかき雨や芽麦に消えて降る
 - 降りつづきたるしやくやくの芽の日なた
 - 麦の芽にきのふの雨の土のいろ
 - 白梅の花と莟と莟がち
 - 大小の梅の莟の白嵌まり
 - 白梅の莟と花といりみだれ
 - 白梅のひかりの中に枝の影
 - 梅にほふ日輪暈の中にあり
 - ただよへる梅のにほじの土の上
 - なほ暮るる夕くらがりの梅白さ
 - 空の日へ枝芽ぶかんとして微塵
 - 大木の芽ぶかんとするしづかなり
 - かかる小さきもののいのちの芽のいとし
 - ふつふつと天日に沸く銀杏の芽
 - しろがねの木の芽ぐもりの日を秘めて
 - 木の芽空日輪ひとつくもるのみ
 - 橡芽ぶく曇りたる日を枝に裹み
 - 木の芽空くもりたる日とあるばかり
 - 村は寝て木の芽ぐもりの月の暈
 - 紅梅のつぼみいよいよけはしけれ
 - 紅梅の花のかたまりづつの色
 - 紅梅の花を没せし闇さかん
 - 木蓮のつぼみのひかり立ちそろふ
 - もくれんの花のひかりの咲きあふれ
 - たんぽぽの一座一座の花の昼
 - おのがじし辛夷の花の雨あがる
 - 朝風の辛夷のひかり咲きめくれ
 - 落ち敷ける椿の花の上の冥さ
 - 落椿あかりの罩むる土の上
 - さんしゆゆの花のこまかさ相ふれず
 - ひとすぢの垂れしあはさの柳の芽
 - 門前の春宵ひたと暗くなる
 - わかれたる人をつつみて春の闇
 - おぼろ夜の翳簷下にうづたかく
 - 木々の芽ぶく夜のくらさにとりまかれ
 - 春の夜のこころに雨の音はあり
 - 目つむれば春の夜の闇つつむなり
 - 雨の音春夜のこころひとりにす
 - 春の夜のなれをつつみて雨の音
 - 春の夜のただあるゆゑのなれ優し
 - 枝の影もみあふ風の花の中
 - 咲きみちし花のあひだの枝に鴉
 - ひとひらの落花のおける水輪ほと
 - 水の上の落花をひかりふちどれる
 - 苗床の月日の雨のそそぎつつ
 - 芽出ぢべくただある土の日なたかな
 - 菜の花の夕ぐれながくなりにけり
 - 蛙田の水のたひらになほ暮るる
 - 菜の花の暮れてなほある水明り
 - 牡丹の花とうしろの壁との隔
 - 牡丹の花もうしろの壁も冥し
 - 麦の穂のおのおの濡れて日の出まへ
 - 麥の葉の高さに朝の風はあり
 - 菜殻焼くにほひに雨の落ちきし夜
 - 菜殻火のおのがけむりを焦がし燃ゆ
 - 療養の夜々をかはづのこゑつつむ
 - 満天の星へかはづのこゑ畳む
 - しづかなる音のただ降る椎落葉
 - 麦熟るる穂のおもたさの立ちそろふ
 - 麦秋の日のしづまんとして全し
 - 麦殻を焼く火の闇のなほはろか
 - 僧坊を借りての月日実梅落つ
 - 実梅落つ音の障子のうちに病む
 - 実梅落つひそかな音の梅雨に入る
 - 雨の日の障子ぐらさも臥さるのみ
 - 土くれといはずあめつち梅雨に入る
 - 長臥しの梅雨降る音の畳かな
 - 目をつむり梅雨降る音のはなれざる
 - ありとあるものの梅雨降る音の中
 - 畦ほそく濡れて代田の水たひら
 - 代掻きの土のかたまり降るばかり
 - たひらなる水のひかりに掻かれし田
 - 背戸の夜の水のはひりし田のにほひ
 - いちまいの水田となりて暮れのこり
 - 梅雨夕焼こんにやくいもの葉にすこし
 - 梅の木のもとに梅雨降る茗荷の葉
 - なが雨のある日のつばめ飛び溜り
 - 十薬も梅雨のあがりし朝の日に
 - 暮れてなほくちなしの花見ゆるほど
 - 隔たりしこころかやつり草に降る
 - ひと来りひと去り竹の皮落つる
 - 窓よりのひるの暑さのうごくなし
 - 蝉しぐれま青と降らせ樹下の土
 - 樹下の土蝉のしぐれに鏡なす
 - 朝よりの大暑の箸をそろへおく
 - 暑にこもる机に朝の間のこころ
 - 極暑なるひりひり鹹き鮭食うぶ
 - 暑にこもる畳に塵をとどむなく
 - 暑にこもることのしづかに身をぬぐふ
 - 身ぎれいに著てすずしさよ起ち居また
 - 炎天下蟻地獄には風吹かず
 - 眩りとす蜥蜴の膚の日の五彩
 - 草むらにうごかぬ蛇の眼と遭ひぬ
 - 灼きつくる日よりも蟻の膚くろし
 - やしなへるやまひに極暑けがれなし
 - 在ることのひるの暑さの畳かな
 - 目をつむりまぶたのそとにある大暑
 - 長臥しの夜のいやなる蚊帳垂れて
 - 大旱の星空に戸をあけて寝る
 - 大旱の夜のいちぢくの葉のにほふ
 - 雨のなき空へのうぜん咲きのぼる
 - 田の草に行つてのるすの竈かな
 - 天よりの喜雨のひとつぶ落ちにけり
 - 在ることのしばらく喜雨の音の中
 - 大夕焼一天をおしひろげたる
 - きはまりし夕焼人のこゑ染まる
 - 天心へ大夕焼のゆるむなし
 - たちまちに大夕焼の天くづれ
 - 朝の日がなんばんの葉のあひだより
 - 足もとにかやつり草の露はじき
 - 筆硯を洗ふ朝涼おのづから
 - 山の日と八月青き栗のいが
 - あけはなし盆の仏間と間ごとの灯
 - 座蒲団のならび燈籠灯くひと間
 - 人の世のかなしきうたを踊るなり
 - 踊すみ燈籠送りすみ闇夜
 - 音たててくさぎの花に山の雨
 - 青柿の月日やけふも雨そそぐ
 - 新涼の夜風障子の紙鳴らす
 - 村は夕べ障子の中に飼ふ秋蚕
 - 露のなか蓼も野菊も日の出まへ
 - はんの木に露の日輪ひつかかり
 - 飛鳥路の秋はしづかに土塀の日
 - よこたはる礎石の月日粟熟れて
 - 山国の日のつめたさのずゐき干す
 - 曼珠沙華描かばや金泥もて繊く
 - 虫の夜のおのれ古りたる影を膝
 - よく閉めて雨の夜長と灯の夜長
 - いちまいの壁の夜長のあるがまま
 - 長き夜の影と坐りてもの縫へる
 - ふりむきし顔の夜長の灯くらがり
 - とけい屋が夜長のがらす戸に幕を
 - 星空へひしめく闇の芋畑
 - 十五夜の灯をほと洩らし百姓家
 - 訣れとは月の明るさなど言うて
 - なんばんのおのが葉風にさとき音
 - なんばんの葉の星明りかさといふ
 - なんばんの葉に照るほどの月ふとり
 - なんばんの月夜へ雨戸寝しづまる
 - ずずだまの穂にうすうすととほき雲
 - 高黍の月夜となりて雲あまた
 - 粟の穂のおのおの垂れて月明り
 - 下げし灯に夜長の襖しまりたる
 - 部屋のもの夜長の影をひとつづつ
 - ひとごゑをへだつ夜長の襖かな
 - めいめいの影の夜長のおのがじし
 - 夜長さの障子の桟の影とあり
 - 長き夜の影のあつまる部屋の隅
 - 秋霖の音のをりをり白く降る
 - 秋霖の音の畳の翳とあり
 - 秋霖の襖の花鳥暗けれど
 - 秋霖のいつかあたりとなくつつむ
 - 夜長さの雨降る音のかはらざる
 - 秋雨の障子かたひし鳴る中に
 - 柿食うて燈下いささか悔に似し
 - 秋燈のもとにて壁のかこむ中
 - ふりむいておのが夜長の影の壁
 - 霧のなか幹のふとさのしづかなり
 - 祖父の世の子の代の土に柿落ちて
 - 柿落ちて日かげじめりの背戸の土
 - 起ちあがる影の夜寒の灯の障子
 - ますぐなる音の木の実の前に落つ
 - 木の実落つ音の落葉にせつかちに
 - 掌のなかの木の実をすてて立ちあがる
 - いちまいの刈田となりてただ日なた
 - ひろびろと稲架の日なたの日のにほひ
 - かけ稲の暮れてゆく穂のただ垂るる
 - 秋耕のいちまいの田をうらがへす
 - 籾を干するすの日なたの日もすがら
 - 干籾のひとつぶづつの日和かな
 - 好日のかがようばかり障子はる
 - 障子の日いつてんの穢をとどむなし
 - 霧のなか雑木黄葉の色はあり
 - ただよへる黄葉あかりのなほ暮れず
 - 木々の間に紅葉のいろのかたまれる
 - 竹林をそびらに紅葉うきあがり
 - 空に透き紅葉いちまいづつならぶ
 - 苔の上のひとつひとつの散り紅葉
 - ふりかぶり濃紅葉あかりくらきほど
 - かんばせに濃紅葉あかりけはしさよ
 - 地に敷いて落葉のしじまときにあり
 - ふとき幹落葉の土をぬいてたつ
 - 地のしじま落葉のしじま敷きにけり
 - たまさかの落葉の音のあるばかり
 - 落葉敷いて大地の思念はじまりぬ
 - 足音をつつみて落葉あつく敷く
 - 地に敷いて朝の落葉のささやかず
 - かさなりて栗の落葉のみな長し
 - 土くれと濡れ朝の日の柿落葉
 - あたらしき柿の落葉のかさなりて
 - 地に柿の落葉の綺羅のうらおもて
 - しづかさをひいて落葉の音つたふ
 - かそけさの落葉の音の枝をつたふ
 - ぬきんでて八つ手の花の日なたあり
 - 花石蕗にさしてうす日やかげりがち
 - あたたかく枯れたるものの日の黄いろ
 - 風よけの中の日なたの饐ゆるほど
 - 藁屋根の大きな日なた霜解けて
 - 日輪の下にうかみて小春雲
 - しづかなる小春となりし枝のさき
 - 田と暮れて籾がらを焼く煙かな
 - 山国のまことうす日や翁の忌
 - 底冷えのこの朝夕を栖まれしか
 - 暮れてゆく落葉おのおのおのが位置
 - 刻々と土の落葉の暮るるのみ
 - なほ暮れて落葉おのおの土の上
 - 足もとの落葉をのこし暮れにけり
 - 音暮れて土の落葉のおちつかず
 - 土と暮れ落葉は闇にもどりけり
 - 短日の障子のひとつなほ日なた
 - 灯くまでの障子の中に夕ぐらさ
 - 雨の夜の火鉢をいれて冬めきぬ
 - あめつちのあひだふと翔つ朴落葉
 - 朴落葉はなれて天の刻ゆらぐ
 - はなれたる朴の落葉のくるあひだ
 - いちまいの朴の落葉なありしあと
 - 人のほか土の上よりもの枯れぬ
 - しみじみと日なたの冬となりし土
 - 雨の日は雨のひかりの土の冬
 - 麦を蒔くこぶしの下のとはの土
 - 冬耕のとほくの牛へ畝長し
 - 茶の花のひそかに蕋の日をいだく
 - 茶の花の蕋のまづしき入り日かな
 - 土の上にある日花枇杷にある日
 - 枇杷の花日あたることをわすれたる
 - ふたまたの幹へながれて冬日かな
 - 根もとよりおのがしじまの大冬木
 - 太幹のしづかさ冬の日をながし
 - 大枯木しづかに枝をたらしたる
 - 冬ぬくく果樹の畑も屋敷うち
 - 谷に住む十一月のあたたかし
 - 吹かれゆく心落葉の風の中
 - ふきまろぶ落葉にしかと大地あり
 - 大枯木すと日かげりてしりぞきぬ
 - 照り昃ることにかかはり大枯木
 - 大枯木日あたるところなかりけり
 - 麦の芽の生ひ出て天を覆ひとす
 - 麦の芽をつつみてひかりやはらかし
 - 麦の芽の立つむきむきに土たひら
 - 雪嶺はるらなり畝はたてよこに
 - 暮れてゆくくらさへ雪の畝ならぶ
 - まなぞこに尾をひく雪のただならず
 - 寒林のなかうつうつと幹ばかり
 - 寒林のなかのどこかに日のこぼれ
 - いつぽんの幹のさへぎる冬日なり
 - 風塵のなか日あたりて土の冬
 - 蝋梅の花にある日のありとのみ
 - 蝋梅の花にとどまりかすかな日
 - 蝋梅の花のつくせる日なたかな
 - 四まいの障子いつぱい冬至の日
 - なが住の炭うつくしくならべつぐ
 - 炭つげばまことひととせながれゐし
 
長谷川素逝 プロフィール
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)


