先行する他の俳句に似ていることを類想といいます。どんなに素敵な句でも先行句があれば、そちらが優先。どれだけそっくりかにもよりますが、大抵の場合 賞に応募しても失格となります。実際問題として俳句は短い詩ですから、はからずも似てしまうケースは多々あります。そんなときは潔く自作を引っ込めるしかありません。
最近では外国語の俳句も人気を得ていますが、もともと俳句は日本語の詩。日本語は一定の情趣を共有している人々の間で話されます。桜といえば、美しく、いさぎよく散るもの。残暑といえば、もう秋なのにじっとしていてもだらだらと汗の流れる不愉快な暑さのことです。言うまでもありません。見方を変えれば、言うまでもないことが通用するからこそ、俳句が成立するともいえるのです。いちいち説明していてはとても十七音では言い尽くせません。このことは類想が多く成立してしまう原因ともなっています。桜といえば?美しく、いさぎよく散るもの。はい、その通り。ですから、美しくいさぎよい桜の句ばかり出来てしまうのです。母といえば小さく、父の背といえば広い。類想は俳句だけなく日本文化の本質的な部分に深く関わっています。
ちなみに近年俳壇を席巻した類句がこちら。誰かの真似という訳でもないらしく、自然発生的に各所で目にするようになりました。原爆忌と終戦日を巧みに詠み込んでいますが類想です。
八月や六日九日十五日
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」