里村紹巴(じょうは)




里村紹巴は戦国時代の連歌師です。

大永5年(1525年)に奈良で生まれ、慶長7年4月14日(1602年6月2日)に亡くなりました。号を臨江斎・宝珠庵といいます。

連歌を周桂(しゅうけい)から学び、周桂の死後には里村昌休(しょうきゅう)から学び、里村家を継ぐに至りました。

織田信長や豊臣秀吉、細川幽斎、島津義久、最上義光、明智光秀、三好長慶といった名だたる武家と人々や公家の三条西公条、古今伝授を授けた近衛稙家などと交流があったといいます。

里村紹巴は40歳で連歌界の第一人者と目され、武家の人々ばかりでなく、最上義光の連歌師であった一花堂乗阿など、日本仏教の一派時宗の僧達とも交流を持っていました。

天正10年(1582年)には、明智光秀らによる愛宕百韻という連歌の会合に参加、明智光秀が『時(土岐)は今 雨(天)が下しる 五月かな』と天下取りを暗喩したとされた際に居合わせてしまったといいます。

そのためか本能寺の変において、暗殺の手引きに類する疑いがかかり、豊臣秀吉等の疑いを辛くも逃れたものの、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件には連座、近江国三井寺の前に蟄居させられたということですから、茶人千利休が秀吉公に疑いをかけられたと同様の災禍のあった、変動の時代だったといえます。やがて里村家は徳川宗家に伺候し、幕府付連歌師という名目で連歌界を指導するに至ります。また、里村家は宝永5年(1707年)に時宗の遊行上人を継承した遊行48代賦国(ふこく)を輩出しました。

里村紹巴は、連歌の季語を集めた『連歌至宝抄』等、数多くの連歌の格式本の著者です。『源氏物語』についての注釈書である『紹巴抄』や『狭衣物語』についての注釈書『下紐』なども著しました。
門人には貞門派の礎を築いた松永貞徳などがいます。






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