明治時代、正岡子規は俳句を新しくしようと苦心していました。それまでは言葉遊びのような句が多く、題材も決まりきったものが多かったと言われています。子規は旧派の陳腐で新しみのない句を「月並俳句」とののしり改革を目指しました。文明開化の時代ですから怒涛のように西洋の文物が流れ込んできます。旧態依然の句を作っていては時代に取り残される。そう考えたのでしょうか、子規は写生という新しい概念を提唱しました。
写生とはもともと西洋絵画の用語で、見たものをそのまま写すこと。キャンバスを屋外に持ち出しスケッチします。それまでの日本画といえば屋内で描かれるものが殆どでしたから画期的な方法論です。洋画家・浅井忠、中村不折らを通して写生を知った子規。戦略的に文学に応用しました。
一歩屋外に踏み出せば昨日と同じ風景はもはやありません。空を見上げれば雲のかたちは毎日違います。それを適切に写せば昨日と同じ句にはならないはず。写生の効果は目覚しく、どんどん新鮮な句が作られるようになりました。従来の句が銭湯の富士山だとすれば、写生の句は8Kの富士山。
子規以前の句と以後の句を、岸本尚毅さんが比較しています。大変わかりやすいのでご紹介しましょう。まず子規以前の句から。
手をついて歌申しあぐる蛙かな 山崎宗鑑
痩せ蛙負けるな一茶これにあり 小林一茶
宗鑑は室町時代のひとで俳諧の師匠。蛙の姿勢を「手をついて」と表現し、鳴き声を「歌申しあぐる」と謡っています。擬人化が面白いのですが、写生というよりも戯画。一茶は江戸時代の俳人で、掲句は代表作のひとつ。蛙の合唱を鳴き比べに見立て、痩せた蛙を応援しています。まさに俳諧味。傑作ですが写生ではありません。
一方、子規以後の句は
蛙の目越えて漣またさざなみ 川端茅舎
蛭の紐蛙の目よりたれにけり 相生垣秋津
茅舎の句は、泳ぐ蛙の姿。目まで水に浸かり、漣(さざなみ)がたっています。蛙の目という小さな部分に焦点をしぼり、具体的に写生しているのがわかりますか。秋津のほうはさらに凄い。蛭が蛙の目に噛みつき血を吸っているのでしょうか。もののあわれを越えた、身も蓋もない現実に圧倒されます。想像では決して描くことのできないありのままの自然の姿です。
ところで俳人の片山由美子さんは「俳句の写生とは言葉を発見すること」と述べています。俳句の場合、どんなによく見てもそれだけでは十分ではありません。言葉の芸術ですから、最終的には言葉に置き換える必要があります。
まだもののかたちに雪の積もりをり 片山由美子
降り始めてしばらくたった雪。地上のものを覆いつくしていますが、まだ少し起伏があります。まだ、という言葉で降り始めてからの時間を。もののかたちに、で雪に覆われながらも起伏がある様子を表現しています。難しい言葉は一切使っていないのに、情報の的確さに驚かされます。言葉の選択こそ俳句のいのち。写生とは言葉の発見です。