俳人・今井聖は動画で私のインタビューに答えてくださっています。(YouTubeで「ハイクロペディア」を検索して見てください)人間探求派として知られる加藤楸邨の最後の弟子であることを自負しながらも、楸邨流の観念ではなく、と言って当世風の写実でもない独自の作風を生み出している作家。その作品の中から、特に印象に残ったものをいくつかご紹介しましょう。
さくらんぼ抜歯の痕に舌置いて
この句を見てはじめて気づきました。抜歯の穴にさくらんぼが丁度はまりそうであることを。何故かはわかりませんが、歯を抜くと痕を舌で触ってみたくなる。誰もがやっているに違いありませんが、あまり句には詠まれない場面を切り取った一句です。さくらんぼを口に含んで転がしながら舌は抜歯の痕に触れ、さくらんぼにも触れます。読者は微かな血の味と果実の甘さが入り混じる不思議な感覚を追体験します。
最近、駅前にできた更地。前に何が建っていたか思い出せない。そんな経験はありませんか。人は無くなったものを容易に忘れることができるのです。しかし抜歯となると話は別。無くなったものが気になって仕方ありません。つまり人は見たものは忘れるが、痛みを伴うものは忘れない。となると、人間の本質を捉えた句ということができるのでしょう。
焚火の父振り向きざまに束子放る
一体どういう状況なのか、さっぱりわかりません。なぜ束子を放るのか。なぜ振り向きざまなのか。焚火である必然性は?わからないことばかりです。しかし、作りものではない迫力があります。こんなことが、嘗てあったのだろうと思わせられるのです。反則すれすれ、いえ立派な反則かもしれませんが気になってしかたない句です。西東三鬼の「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす」を初めて読んだときもそうでした。意味がわからないけれども、惹かれる句というものが確かにあります。むしろ筋が通らない分、現実味が増しているともいえるのです。実際に見なければ、そんなシーンを書く筈もないからです。合理的な説明を考えるよりも、ありのままに句を読んで、その世界に浸る。父が放り投げた束子をしっかりと受け止める。それも読者の楽しみの一つなのでしょう。
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