松尾芭蕉とは? 松尾芭蕉の有名な俳句などを解説

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目次

松尾芭蕉とは

松尾芭蕉は江戸時代前半の俳諧師です。

俳諧という俳句の元になったものを発展させて、芸術として俳句を完成しました。

松尾芭蕉が有名なのは俳句のみでなく、紀行文の「奥の細道」などもあります。

全国をいろいろ旅して詠んだ歌は、いろいろなところの石碑などにも刻まれています。

俳句は、俳諧という江戸時代に栄えていたものが発展したものです。

俳句という言葉は、実際には正岡子規によって明治時代になってから広まりました。

俳諧は、複数の人で五・七・五と七・七を詠み合い続ける連歌形式でした。

松尾芭蕉は、俳諧の五・七・五のみを詠むことを発展させました。

俳句は、四季をイメージする季語が入っている必要があります。

川柳も同じような形式ですが、川柳は季語を入れなくてもいいという違いがあります。

松尾芭蕉の幼名

寛永21年(1644年)に、伊賀の国すなわち現在の三重県伊賀市で誕生したとされます。松尾家は農民でしたが、名字帯刀を許されていました。というのは伊賀の国の、平氏の末流を名乗る、旧来からの土豪一族だったそうです。

松尾芭蕉という名前だけが本名のように思われるほど有名ですが、松尾芭蕉以外に沢山の名前があるのでご紹介します。

まず、幼名を金作、名は忠右衛門宗房でした。

甚七郎や甚四郎は徒名のようなもので、通称ともいわれます。

俳号として、初期には実名である宗房が、次に中国風の桃青が選ばれていました。

そのような経緯があって、ようやく芭蕉(はせを)という俳号に落ち着いたとされています。

京都の貞門派北村季吟の門下として、長く俳句を詠み、西山宗因などの談林派俳諧による影響を強く受けているといわれていました。

延宝6年(1678年)に、桃青という俳号で、松尾忠右衛門宗房はついに職業的な俳諧師である宗匠となります。

天和2年(1682年)12月には、天和の大火すなわち八百屋お七の付け火による火事のため、なんと芭蕉庵を失ってしまう惨禍に遭い、せっかく築いた地道な生活を思い、涙にくれる想いをしたといいます。

松尾芭蕉は、弟子となった河合曾良を伴い、旅の日記と句作に励んだといいます。

亡くなったのは、元禄7年10月12日(1694年11月28日)のことです。

直前の元禄7年10月12日に仕上げられたという辞世の句は大変有名で、かつ生涯が偲ばれる名句となっています。

  旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
  松尾芭蕉

「奥の細道」とは?

「奥の細道」は、松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に江戸から弟子の河合曾良を連れて、奥州、北陸道を旅したときの文章です。

奥州、北陸道を約150日間で旅して、江戸に2年後に戻りました。

多くの俳句が「奥の細道」には詠み込まれており、松尾芭蕉の作品の中で最も有名なものです。

松尾芭蕉の有名な俳句とは?

ここでは、松尾芭蕉の有名な俳句についてご紹介します。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

この俳句は、岩手県の平泉で源義経が自害されたとされるところで読んだものです。

意味としては、この地は現在夏草が生い茂るのみであるが、英雄たちが昔夢に破れた跡であるなということです。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」

この俳句は、最期に松尾芭蕉が詠んだ辞世の句です。

意味としては、私は死の床に旅先で伏していても見知らぬ枯野を夢の中で駆け回っているということです。

松尾芭蕉の俳句を愛し旅を愛した生き様を詠んだものです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

この俳句は、山形県新庄で地元の人から教えてもらった立石寺を訪問したときに詠んだものです。

意味としては、本堂に夕暮れ時に訪問して、周囲が静まり返る中、岩に染み入るように蝉の声のみが聞こえてくるようだということです。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

この俳句の意味は、蛙が古い池に飛び込む音が聞こえてくる、なんと静かなのだろうということで、季語は蛙です。

単純な「古池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた」という情景ですが、しみじみとした味わいを日常的な物事に見出す松尾芭蕉ならではの名句です。

蛙というとその当時は鳴く姿を詠むときが多くありましたが、水の跳ねる音に着目したのは新しい感覚です。

「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」

この俳句の意味は、春が過ぎ去ろうとしていることに対して、鳴いて鳥は悲しみ、目に涙を魚は浮かべており、悲しみがよりわき上がってくるということで、季語は行く春です。

旅立とうとするときに、松尾芭蕉が詠んだ俳句です。

見送りするために多くの友人や門弟などが駆けつけ、過ぎ行く春の惜別に別れを惜しむ様子をかけて詠んでいます。

旅はその当時は命がけの危なさがあり、方角的に東北は鬼門になるため、多くの不安要素もあったことでしょう。

「山里は 万歳遅し 梅の花」

この俳句の意味は、梅の花が咲く頃になって、辺鄙な山里では、万歳がようやくやってきたことだということで、季語は梅です。

新年をお祝いしながら民家を巡回する民俗芸能が、万歳のことです。

先に実入りのいい都会を巡回するため、後回しに田舎はされていたようです。

梅がほころびるようになって万歳師がようやく訪れたのを見て、正月気分になったように感じられます。

「山路きて 何やらゆかし すみれ草」

この俳句の意味は、山路を辿ってきて、ひっそりと道端に咲くすみれ花をふと目にして、心がなんとなく惹かれることよということで、季語はすみれ草です。

すみれの花は可憐なものですが、健気に慎ましく咲く様子に励まされて、旅の険しい疲れも癒されたでしょう。

春の風情や山道の木々の間から差し込む光の温かさが感じられます。

「草臥れて 宿借るころや 藤の花」

この俳句の意味は、旅に疲れて、宿がそろそろ必要になってきた。ふと見れば、見事に藤の花が咲いているということで、季語は藤の花です。

「草臥れて」の意味は「くたびれて」ということです。

晩春の夕暮れに、ふと空を疲れた身体で見ると、重く藤の淡い紫の花が咲き垂れていました。

そこはかとない春愁と旅愁を、藤のけだるげな風情に誘います。

「しばらくは 花の上なる 月夜かな」

この俳句の意味は、月が今を盛りと咲き誇っている花の上に照っている。月下の花見がしばらくはできそうだということで、季語は花です。

桜の花が一心に月の光を浴びて輝くものを描いた、美しい日本人の情感に訴える俳句です。

いつまでも見つめていたいと考えながら、永遠にこの光景は続くものではなく、月はやがて傾き、儚く幻想的な美しさは無くなってしまうというような思いも詠み込まれています。

「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」

この俳句の意味は、岩間に激しい音を立てて滝が流れ落ち、風も吹かないのに岸辺に咲いている山吹の花は風にほろほろと散るということで、季語は山吹です。

いつまでも滝の激しく流れ落ちる音が耳に響くような、斬新な焦点を聴覚に当てた俳句です。

自分の旅に、生きる人生を山吹の花が自然に散っていく様子を重ね合わせ儚さを感じています。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」

この俳句の意味は、見渡すと桜が咲き誇って雲と見間違えるくらいである。聞こえてくるのは上野の寛永寺の鐘の音だろうか、あるいは浅草の浅草寺だろうかということで、季語は花の雲です。

鐘は、「時を告げる鐘の音」のことで、江戸時代の暮らしには必要なものでした。

上野と浅草は、「芭蕉庵」という松尾芭蕉がその当時に住んでいたところからは同じような距離であったようで、鐘の音がいずれのお寺からも聞こえていたことでしょう。

俳句に没頭しているある春の日、ふと耳にした鐘の音で現実の世界に一気に引き戻される松尾芭蕉の様子が詠み取れます。

「五月雨を 集めてはやし 最上川」

この俳句の意味は、最上川の急流は水かさが梅雨の雨を集めて多くなっているよということで、季語は五月雨です。

「五月雨を 集めて涼し 最上川」と初めの句会では詠んでおり、穏やかに涼風を運びながら流れる様子を表していました。

しかし、日本三大急流の一つである最上川は流れが早く、長雨によって増水しており危なさが増していたはずです。

激流を川下りで経験した松尾芭蕉は、俳句の内容を「集めてはやし」と思わず変えたといわれています。

「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」

この俳句の意味は、懐古の情に柳にたたずんでふけっている間に、一枚の田植えが終わって農民たちは立ち去った。時が思わず経ったのだと、柳の元を松尾芭蕉も立ち去ったということで、季語は田植えです。

松尾芭蕉が憧れていた西行法師という伝説的な歌人が寄ったといわれている有名な柳の木を前にして詠んだ俳句です。

柳に見とれて想いを西行法師に馳せますが、ふと気が付けば毎年変わらない農民が働いている姿がありました。

西行法師に対する深い思慕の情を詠みながら、これとは関係なく繰り広げられる農民の営みをおもしろがる視点を持っていました。

「暑き日を 海にいれたり 最上川」

この俳句の意味は、最上川が一日の暑さを海に流し入れてくれた。夕方の涼がやっと得られることだということで、季語は暑き日です。

旅を厳しい暑さの中でしてきた一日の最後に、最上川が暑さを海に注ぎこんでくれるようであると表しています。

雄大な自然の最上川をテーマに、夏の夕暮れ時の涼を「涼しい」の語を使わないで表した俳句です。

「五月雨を 降り残してや 光堂」

この俳句の意味は、五月雨は全てのものを朽ちさせてしまうが、この光堂のみは降り残したのだろうか。今も金色が光輝いていることよということで、季語は五月雨です。

平泉中尊寺の金色堂が、光堂のことです。

数百年も以前に建築され、五月雨が毎年降ったであろうに、今なお眩い輝きを朽ちることなく放つ様子に感動して詠んだ俳句です。

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

この俳句の意味は、日光の青葉若葉に降り注ぐ日の光は、ああ、尊くありがたいことよということで、季語は青葉若葉です。

日照東照宮を松尾芭蕉が訪れたときに詠んだ俳句で、地名の日光と太陽の光ということが「日の光」にはかけられています。

初夏の美しい新緑とともに、隅々まで徳川の威光が降り注ぐ日の光のように届いていることを表しています。

松尾芭蕉は忍者であったという説がある

松尾芭蕉は忍者であったという説の理由としては、2400 kmを約5ヶ月間で歩くのは非常に歩くスピードが速いということになるためです。

また、松尾芭蕉の出身は伊賀の国であるといわれており、伊賀というと伊賀忍者という戦国最大の規模の忍者で有名です。

伊賀忍者の血を松尾芭蕉は引いているのではないか、基本的に「奥の細道」の旅そのものが隠密行動ではないかともいわれています。

しかし、松尾芭蕉の俳句の才能は、俳聖と現在でもいわれるくらい本物です。

「奥の細道」の謎とは?

「奥の細道」には謎がいくつもあります。

ここでは、「奥の細道」の謎についてご紹介します。

「奥の細道」は紀行文ではない?

多くの人は「奥の細道」が紀行文であると考えているでしょうが、これは間違っています。

みちのくに松尾芭蕉が旅したのは、元禄2年(1689年)の春~秋です。

この後、推敲に3年以上も費やして「奥の細道」を書いています。

旅の経緯については、詳しく「曾良の旅日記」に書かれており、道順、情景の描写、宿泊地、人の名前、天気など、いくつも事実とは違うことがあります。

例えば、人里離れた道を通って泊まるところに苦労したのは、実際は話を盛り上げるためのほとんどは脚色です。

さらに、「五月雨を 集めて涼し 最上川」と連句の発句として初めに詠みましたが、「早し」に変更されたこともわかっています。

このように、実際には「奥の細道」は旅した通りに書かれたものでなく、十分に構成を練った文芸作品、つまりフィクションでした。

どうしてみちのくに松尾芭蕉は旅に出たか?

松尾芭蕉は関西文化圏の伊賀上野というところで育ったため、みちのくは未知のはるか彼方の国でした。

江戸時代は人生50年といわれており、旅に40代半ばで出るのは、亡くなるまでに自分の夢を叶えたいということからでした。

自分の夢というのは、松尾芭蕉が敬う連歌師や歌人が詠んだ歌枕(名所)を訪問することでした。

万葉時代からみちのくは歌枕の宝庫であり、自分の目で名歌に出てくる歌枕を確認したいという衝動にかられました。

松尾芭蕉は、みちのくを旅した後に九州の旅を考えましたが、大坂で51歳で亡くなりました。

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という有名な辞世の句の通り、松尾芭蕉は亡くなっても旅を愛して、俳諧を追求しているのでしょう。

「奥の細道」の旅はどの程度の費用がかかったか?

詳しい「奥の細道」の旅の費用についての記録は残っていませんが、「曾良の旅日記」の内容から推定すれば、全ての旅の費用は約100万円超でしょう。

松尾芭蕉の弟子の河合曾良が旅先の有力者に前もって連絡しておいたため、各地で松尾芭蕉は歓待されて、費用が安くなったようです。

「奥の細道」を読めば、貧乏な旅というイメージがありますが、実際には余裕がある旅であったようです。

松尾芭蕉はグルメであった?

松尾芭蕉の食事についてはほとんど「奥の細道」に書かれていませんが、「曾良の旅日記」にはいくつも書かれています。

「曾良の旅日記」には、酒、そば、うどんの順番に多く書かれており、松尾芭蕉の好みと同じであると考えられます。

各地の有力者が準備してくれた食事は、いずれもその当時は貴重品であったものばかりです。

そのため、「奥の細道」はグルメ旅といえるでしょう。

松尾芭蕉の弟子とは?

松尾芭蕉のことはよく知っていても、松尾芭蕉の弟子については知らない人も多くいるのではないでしょうか。

松尾芭蕉の弟子としては、蕉門十哲がいました。

蕉門十哲は、松尾芭蕉の弟子の中でも特に優れた10人です。

しかし、この10人はいろいろな説があるため、人物が場合によっては替わるときもあります。

ここでは、松尾芭蕉の弟子についてご紹介します。

  • 宝井其角

句集としては「枯尾花」などがあります。

  • 服部嵐雪

宝井其角と双璧をなす弟子です。

  • 森川許六

松尾芭蕉に画を教えたといわれています。

  • 向井去来

「猿衰」を編集した人物です。

  • 各務支考

蕉風を全国に広めた人物です。

  • 内藤丈草

著書として「丈草発句集」などがあります。

  • 杉山杉風

松尾芭蕉を経済的に支えました。

  • 立花北枝

「奥の細道」の道中で松尾芭蕉と出会って弟子になりました。

  • 志太野坡

松尾芭蕉の遺書を代筆しています。

  • 越智越人

「更科紀行」の旅に一緒に行きました。

なお、蕉門十哲としては、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人の代わりに、次のような人物を含める説もあります。

  • 河合曾良

「奥の細道」に一緒に行きました。

  • 広瀬惟然

「藤の実」という編著があります。

  • 服部土芳

伊賀蕉門の中心的な人物です。

  • 天野桃隣

松尾芭蕉の甥であるといわれている人物です。

松尾芭蕉の俳句

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