燕は三つの季節にまたがる季語です。まず「燕」は春。春先、南方から渡ってきて巣作りを始める燕です。「子燕」は夏。巣の中から黄色い嘴をのぞかせる燕の子です。そして秋燕。日本での繁殖を終え、冬が訪れる前に暖かい南方へ去ってゆく燕です。同じ燕でも背負っている情緒が違いますよね。春の燕には希望、夏の燕の子には生命力、そして秋の燕には寂しさや自然界のことわりのようなものが感じられるのです。さて、秋燕を詠んだ名句を情緒の点から鑑賞してみましょう。
去ることが答へか秋のつばくらめ 大木あまり
第六十二回読売文学賞を受賞した句集からの一句です。子育てを終えた燕は、九月頃に去って行きます。秋燕は「その燕を見送る気持ちを感じさせる季語。山里や町空を飛び交っていた燕もいつの間にか見なくなる」と歳時記に。「来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子」と詠む人もいれば「去ることが答へか」と詠む作者もいる。同じ鳥を見ても春に来る喜びを詠むか、秋に去る愁いを詠むかで内容が随分異なります。実は作者と石田郷子さんは「星の木」という俳誌の仲間。掲句は石田さんの句を踏まえてのものだったのかも知れません。
さて「去ることが答へか」といきなり自答で始まる掲句。これに先立つのはどのような問いなのでしょうか。
「いつまでここにいてくれるのか」
「地上のすべてが移ろう中で、不変なるものとは何か」
「愛は永遠なのか」
ひとつ気がついたことがあります。秋に去ることは春に来ることの準備なのではないか。燕は毎年春に来て秋に帰ります。命懸けで海を渡り、遥かな旅をします。何のためでしょう。まるで、約束を果たしているかのようです。一体誰との約束なのか。大地との約束。春との約束。燕はまた来る約束を果たすために去る。去らなければまた来られないのですから。
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