季語の成分だけをもとに一句を構成するのが一物仕立て。一方、季語と直接関係のない言葉を組み合わせて作ることを、取り合わせと言います。実際の句作の場合には取り合わせが圧倒的に多いのです。多分九割くらい。「え、そんなに?歳時記には取り合わせの句は少ないけど」と驚かれるかもしれませんね。でも、そうなんです。歳時記に一物仕立てが多いのは、季語の本意をわからせるため。でも句作の現場では取り合わせが圧倒的多数なのです。まず名手の作品を覚えてしまいましょう。私のお勧めは田中裕明さんです。
悉く全集にあり衣被 田中裕明
衣被(きぬかつぎ)とは「小ぶりの里芋を皮のまま茹で塩味で食べるもの。衣を脱ぐようにつるりと皮がむける」と歳時記に。全集と衣被、全く関係のないものを取り合わせています。季語との距離はかなり遠い。句会で取り合わせの句が出てきたら、二つの要素がどう響きあっているのか考える癖を付けてください。では掲句の場合は?実は私にもよくわかりません。と言ってしまうと身も蓋もないので、何とかひねり出してみます。
全集には、すべての作品が掲載されています。すべてが見えている本です。一方、衣被は指でつまむとつるっと皮がむけて、中身の芋が現れます。こちらも中身が丸見え。この見えている感じが響きあっているのではないでしょうか。
江戸時代の発句は季語との距離感が近く、誰にでも理解が可能でした。時代が下るにつれ、距離は離れ理解が難しくなっているように思います。音楽にたとえれば、江戸の句はモーツァルト。メロディーと和音が一致しているため疲れません。現代の取り合わせはジャズ。メロディーと和音を意識的にずらしているため、時にけたたましく雑音のようにも聞こえます。しかし、そのずれこそが、現代の感性。取り合わせは調和のとれた和音から不協和音の時代へ。それが俳句界の大きな流れです。
ところで、岸本尚毅さんは「取り合わせではなく、ありあわせ」と言っています。その場にあるものを詠むのが写生。その場に季語が二つあったら、季重なりでも構わないと主張します。一方で、季重なりはダメという俳人もいますし、ありあわせではなく、季語を輝かせる措辞でなければとおっしゃる方もいます。このあたり、人によって意見が異なるところでしょう。私はといえば、季重なりは最小限に。季語を輝かせる措辞を、と考えています。
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