元の作品を改変して別の作品にすることを本歌取りといい、詩歌の世界で古来行われてきました。
春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
この句は、清少納言の枕草子「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際 少しあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる」を本歌取りしたもの。「春は曙」という出だしで雅びな平安貴族を連想させ、打って変わって「そろそろ帰つてくれないか」という現代の男女のあけすけな恋の駆け引きに転じるという見事な展開です。
さて、この本歌取りをめぐって論争を引き起こした作家がいます。寺山修司(1935~1983)。十代で歌壇に登場し、俳句、詩、演劇、映画など様々な分野で創作活動を行った寺山。多くの作家が、俳句だけ、短歌だけ、あるいは詩だけ、と専門化していた時代に、寺山はさまざまなジャンルを自在に横断しました。それだけでなく他人の句を短歌に改作したとして非難さえされたのです。寺山の作品が盗作なのか、本歌取りなのかは、現在でも議論を呼ぶところ。下記の作品をご覧ください。
人を訪はずば自己なき男月見草 中村草田男
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男 寺山修司
燭の灯を莨火(たばこび)としつチェホフ忌 中村草田男
莨火を床にふみ消して立ちあがるチェホフ祭の若き俳優 寺山修司
わが天使なるやも知れず寒雀 西東三鬼
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 寺山修司
鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男
わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば 寺山修司
松岡正剛さんは「千夜千冊」にこう記しています。「たしかに本歌があります。あとから知ったことですが、これらの"盗作"については「時事新報」の俳壇時評に指摘があらわれてから、ずいぶん大騒動になっていたらしい。(中略)しかし、ぼくは盗作おおいに結構、引用おおいに結構という立場です。だいたい何をもって盗作というかによるのですが、古今、新古今はそれ(本歌取り)をこそ真骨頂としていたわけですし、そうでなくとも人間がつかう言葉の大半は盗作相互作用だというべきで、むしろどれほどみごとな引用適用応用がおこったかということこそが、あえて議論や評価の対象になるべきではないかとおもうくらいです」
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