投げ出して足遠くある暮春かな 村上鞆彦「遅日の岸(2015)」
写生の句だと思いました。一言で写生と言いますが二種類あるように思います。主観的写生と客観的写生。それぞれカメラを置く位置が異なります。主観はいわゆる「見た目」。自分の目の位置にカメラを置き、世界を写します。カメラは体を離れません。ですから自分の顔は写りません。せいぜい鼻の先が関の山。一方、客観的写生は通常の映画の映像です。好きなところにカメラを置き、世界を写します。ドローンにカメラをつければ空撮。クレーンにつければダイナミックな上下ですから足は不自然なまでに遠く見える。それが「足遠くある」というフレーズが描く世界です。暮春は、春がまさに果てようとする時期のこと。何となく物憂く艶めいた季語です。体の一部であるはずの足さえも遠く感じる作者。心象的な風景を見事に映像化して見せてくれました。動。車に乗せれば移動撮影も可能です。この分類に基づけば、掲句は主観的写生の一句。自分の眼の位置から、投げ出した自分の足を写しています。使用しているのは、広角に写すことのできるワイドレンズ。中央のものは大きく、周辺にゆくに従って不自然に遠く小さくなるという特性があります。
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」
公式サイト:http://miruhaiku.com/top.html