季語にとらわれず、五七五からも自由な形式の俳句のこと。季語がなくてもOKなので、有季定型よりも簡単そうに見えます。ところがどっこい。作ろうとすると実に難しい。下手をすると標語のようになってしまいます。私たちが俳句を作るとき、いかに季語と定型に寄りかかっているかを再認識させられます。
この分野の名句にはこんなものがあります。
墓のうらに廻る 尾崎放哉
こんなにも短いのに不思議な余韻に満ちた句。なぜ墓の裏に回るのか?作者は何も語りません。語らないことで余韻が増しています。一説によれば墓の裏には故人の業績が刻まれていて、それを確かめようとしている。そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。いずれにせよ放哉の辛らつな人間観察の眼を感じないわけには行きません。
まっすぐな道でさみしい 種田山頭火
こちらも不思議な句。普通、俳句では「さみしい」という言葉は使いません。作者が「さみしい」と書くのではなく、読者に「さみしい」と想像させるのが眼目だからです。それなのに「さみしい」と堂々と書いてあって、しかも他の言葉に置き換えることは不可能。確かに名句ではありますが、この手は一度限り。真似すると二番煎じと揶揄されます。
有季定型の場合は名句を暗誦し、そのかたちを覚えることが実作に役立ちます。しかし自由律の句は覚えても応用がききません。独立峰のように単独でそびえたつのみ。
放哉も山頭火も無頼の人生を送ったひとです。彼らの物語を背後に読み取るからこそ、いっそう句が輝いて見えるのでしょう。自由律の句は作者の人生とワンセットになっています。残念ながら放蕩無頼を実行できない私は、自由律を諦めています。
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