人間でないものを人間に例える手法を擬人法といいます。俳句を始めたばかりのころ、句会で先輩方にこんな論評をされたことがありました。「この句は擬人法じゃない?」「擬人法でしょ」その言い方が、あまり褒めているようには聞こえない。むしろ少々小馬鹿にされた感じ。次第にわかったきたことは、擬人法の句は取らない、評価しないという俳人が一定数いるということ
ちょっと待ってください。擬人法は立派な修辞のひとつ。俳句の入門書にも必ず載っていますよ。表向きは認めておいて裏に回ってけなすなんて卑怯じゃありませんか。そう思ったのですが、いざ句会で擬人法の句に出会ったとき、選句しない自分に気づくようになりました。何というか、五句選だとして一番好きな句、次点、さらにその次くらいは即断できるのですが、4番手5番手はそれ以下と差をつけられなくて迷うことが多いのです。そうなると、いい点を探すのではなく、悪い点を見つけて落とす口実にします。擬人法はその口実にされやすいのですね。「わかりやすすぎる」といったら語弊があるかもしれませんが、作者の狙いがはっきりしている分、底が浅いように感じられてしまうのです。幼稚園のころ「お日様がにこにこ笑っている」とか「チューリップが歌ってる」とか習いましたよね。今思えば立派な擬人法です。ですから俳句に用いると少々幼く感じられてしまうのですよ。
しかし、俳句の世界は深くて広大ですから時には「参りました」と脱帽の擬人法もあります。それがこちらの句。
年を以って巨人としたり歩み去る 高濱虚子
年月を巨人に例えた一句。茫洋として掴みどころのなく、しかも引き止めることはできない巨人の姿に時の流れを重ねています。私にはゴヤの描く巨人の姿が重なって見えます。
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