芥川龍之介が「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写」している点で、万太郎ほどの作者はまれであろうと指摘しています。小説や戯曲の世界で活躍した万太郎ですが、今日その作品を覚えている人は多くありません。その文名を高くしているのは、むしろ余技であった俳句の方なのです。下町の情感にあふれた、言い換えれば日本人の心の琴線に触れる句を数多く残しています。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
湯豆腐をつついているのは万太郎ひとりでしょうか。向いあうはずだった女性は先に逝ってしまった。そんな哀切な句です。ふつふつと湯豆腐の湯が沸く音を聞いているここが、いのちの果て。うすあかりに孤独な男の影が浮かび上がります。湯豆腐といのちという意表を突いた取り合わせが、すんなりと胸に落ちるのは少々意外な気もします。考えてみれば、いのちとは豆腐のようにたよりない存在。色はなく匂いも薄く、たやすく崩れかたちを失うもの。
プロフィール
蜂谷一人
1954年岡山市生まれ。俳人、画人、TVプロデューサー。「いつき組」「街」「玉藻」所属。第三十一回俳壇賞受賞。句集に「プラネタリウムの夜」「青でなくブルー」
公式サイト:http://miruhaiku.com/top.html